安保法案と法律家の論理

SarahBabineau「法的」であることは「政治的」であることに対するチェックを含む

法人の権利能力と「目的の範囲」が争われた有名な事件に「八幡製鉄政治献金事件」というのがある。
判決は,企業(会社)が特定の政党への政治献金をすることも,目的の範囲内であり許されるというものだが,これは裁判所が政治献金に賛成しているということではない。
法律の解釈として,そのような結論が導かれるということであり,政治的立場として,政治献金に賛成を表明するものではない。

つまり,法人はその目的の範囲内のことをできるのであるから,その政治献金がその企業に役立つのなら,目的の範囲内であろう,というにすぎない。
これついて,内田貴氏は次のように述べている。

たとえ政治的に政治献金絶対反対という立場をとったとしても,民法34条の解釈によってそれを実現しようとするのは,解釈論としては無理がある。これが法律家の論理というものである。それは,一見,現状追認的な保守的立場のように見えるかもしれない。しかし,政治的に政治献金についてどのような立場をとるかの問題とは一応独立に,以上の議論は法律論として成り立つのであって,そのような一種の自律的な論理の体系として法解釈学が存在している。それは,政治的に無色で中立である,というわけでは全くない。(中略)しかし,「法的」であるということは,完全に「政治的」であることに対する重要なチェックを含んでいる。(内田「民法Ⅰ」p.244)

このように考えることができるのが,法律家の法律家たる所以ではないだろうか。
政治的意見に対して,政治的に答えるのではなく,法律家の論理をもって答える。これが実は「政治的である」ことに対するチェックにもなる。法律家の役割の一つともいえる。

「法的」であるから安保法案に反対する

昨今の安保法制について,この論理をもって答えるならば,どうなるであろうか。

たとえ,集団的自衛権絶対賛成という立場をとったとしても,憲法の解釈によってそれを実現しようとするのは,解釈論としては無理がある。これが法律家の論理というものである。それは,一見,革新的な左翼的立場のように見えるかもしれない。しかし,政治的に集団的自衛権についてどのような立場をとるかの問題とは一応独立に,以上の議論は法律論として成り立つのであって,そのような一種の自律的な論理の体系として法解釈学(または憲法学)が存在している。それは,政治的に無色で中立である,というわけでは全くない。(中略)しかし,「法的」であるということは,完全に「政治的」であることに対する重要なチェックを含んでいる。

つまり,法律家として,安保法制に反対するのは,政治的立場の表明ではなく,法律家の論理として「政治的」であることに対するチェックとして反対しているのである。

自衛隊は合憲なのに,安保法案は違憲なのか

今回の安保法案に反対の意見として,現行憲法上は集団的自衛権は認められないのだから,反対,というものがあり,これは集団的自衛権を行使するならまず憲法を改正すべしという意見であり,主に手続を問題にしているわけである。したがって,この意見の人の中には,集団的自衛権自体には賛成という人も含まれる。
これに対して,自衛隊は合憲なのに,集団的自衛権は違憲というのは,おかしいのではないかという意見があるようだが,自衛隊が合憲というのは,「戦力にあたらない」からと政府が言ってきただけであり,集団的自衛権行使自体に反対の人には,自衛隊も違憲であると考える人は多くいるはずであり,その場合,論理は一貫しており,何の矛盾もないことになる。
憲法学からも,自衛隊違憲という説があっても,何ら問題ない。
むしろ,憲法の文理解釈からは,その方が自然である。

憲法前文が集団的自衛権行使の根拠?

このような説があるらしいが,目が点というか,論評にも値しない。
集団的自衛権というのは,一般的に他国が困っている時に,他国を助けましょう,といったものではもちろんない。
最終的にはどのような名目であれ武力の行使を伴うのである。
抑止力ということでもなく,「現実に行使できますよ」ということを決めようとしているわけである。

同盟国が攻められたら,国際平和のために武力行使をしていいですよ,などとは憲法前文のどこにも書いていない。
むしろ,憲法前文は「国家の独善」を戒めている。つまり,国家主権の相対性を言っているのであり,他国を助けようということではない。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」に日本の安全保障を委ねるとしているのであり,「平和を愛する諸国家の公正と信義」とはしていない。
そもそも前文の主語は「日本国民」であり,日本国民が国家に対して,独善性に陥らないよう命ずるという構成になっている。
ここまでくれば,法的な問題というより,国語力の問題に思えてくるが,国家と国民の区別ができていないということが核心問題である。